昭和46年03月20日 春季総会
お互いそれぞれの立場で、それぞれに御用にお使い回しを頂いておる訳でございます。折角御用に使うて頂くのでございますから、それを意識する意識しないは別として、神様が使おうと思し召せば、様々な手練手管を持ってお使い下さるのですよね。それは氏子がおかげを頂かねばならんからであります。ですからそれぞれにまぁお使い回しを頂く。例えば今日はこういう例がありました。
毎日お参りをして来る。けれども御理解もほんろくそに頂かない。私は本当に残念な事だなと。毎日お参りして、まぁ自分の願いだけを願うて帰られるという方があります。それで一口あんた折角、お参りをして来るのだから、御理解ぐらい頂いて帰りなさいと言おうかと私は思いましたら。その時から御心眼にね、ちょうどそこの庭に灯篭が有りますでしょう庭の燈篭が。
ああいう灯篭にね、紙を張って中に光を入れようするような所を頂きました。あれがね私はそん時も、今皆さんに申しましたようなね、事を感じたんですよ。ははぁ神様がね、只おかげを頂きたい、おかげを頂きたいでお参りをして来るから、おかげを下さらなければならない。為にはね本人自分自身も、気がついてないけれども、様々な形で神様はいわゆる手練手管を以って、使うて下さるなと言う事です。
ですから私どもが無意識の中に使われておる、それはまぁおかげを受けなけねばならんからではありますけれども、私共が意識してそして一心の真を、そこに現して御用に立たせて頂くと言う事がです。是はそのままおかげも頂くでしょうけれども、その事が力になり、徳になりという事になるのじゃないかと思います。今私が申しました方は、中々地位もある方らしい。まぁ町でも人格者で通っておられる方なんです。
ほほぅあの人が合楽に参よってかと言うと、人でもやっぱちょっと注目する位の人なんです。ですからここに一つの庭を形成するためには、その灯篭がいるのですやっぱり。中に火は灯っていなくても。だからその人は神様から灯篭変りに使われておられると言う事が言えるですね。だけど中にね紙を張ったり火を入れたりするとかえって可笑しいち。だから一つの事を神様が成就なさろうとなさるためにはですね。
様々な言わば立場様々な思いやりでです、お互いが御用に立たなければならない、また神様が御用に使うて下さるのでございます。それはお互いが意識する、意識しないは別として、そのような訳でございますから、私共、信心させて頂いて、そこに気付かせて頂き。言わば例えばその方がですよ、信心のおかげを頂くと言う事よりも、信心を頂くという姿勢になられれば、また別な御用の場が与えられる事でしょう。
けれどもねお互いが、まぁ先ほど委員長が言っておられます様に、まぁ言うならば神様に選ばれた人。まぁ言うなら皆さんの場合なんか、そういう一つの自覚を持ってです。ほんなら選ばれておるが、白羽の矢を立てられておるが、果たして私がどの様な姿勢で、その御用に取り組んでおるであろうかという事なのであります。それにはねやはり真心一心。私はそういう場合にね、私はやはりこう言わない主義でおります。
こりゃ子供達にでも、皆さんにでもそうです。けれども今日は、言わなければいけないなと思うような事の場合が有りますけれども。今日そんな事がありました。〇〇さんの事を、そんな事で、出来んじゃないかと言いたいと思いましたら、あの客殿のふすまの引き手に、月の引き手がありましょう、こうやって。これは誰かのあれで正義さんの御用でした。今日は委員長の御用を承っておりますしね、本当言うなら今日は、一番に来とかにゃならんとですこの男はね言うならば。
そして言わば指図の一つも、それ前の御用の一つのさせておらなければならない立場にあるのです。ところが私御結界についても来ておりませんもん。だからすぐその事を、他の事は言いませんでした。正義さん来とらんのと聞いたら、来とらんと言うから、そすと、どっちだろうかと私は思うた。今日来たらかおるさんが、そんなこっじゃ出来んばい、これからも大変な御用があるとに、と言おうと思うたら、神様があの月の引き手を下さる。言う事はいらんって言う事なんです。
こちらが月のあり方になってさえおれば良いと言う事。和らぐ心円満の心であっておれば良い。そして祈ってれば良いと。そして御祈念させて頂いて着いたら、そこにまぁ顔が見えられますから、成程言う事いらんのと思ったんです。けれどもね例えばそのそういう、言うならば言うならまぁ性格的に、正義さんなんかは、悪く言うと消極的。良く言うと非常、なんて言うんですかね、慇懃(いんぎん)で、慎み深くて、そりゃ自分から、表に立って出ろうなんていう人柄じゃないです。
今度でももうそれこそ親に言われてから、此の事を受けられたんで、私は全然会議に出席しませんから分かりません。どう言う雰囲気であったか。そういう訳でこの午後から仕えられる、記念祭の事の準備の委員会が、ここで持たれる訳ですけれども、知りませんけれどもです。自分が進んでその役を頂こうとした訳じゃないでしょう。皆から、言われてからでしょうけども。
大変な役を承ったと言うのではなくてです、そこにはそういう一つの自覚を持ってね、銘々が。折角御用させて頂くならば、本気で神様に喜んで頂くような御用をさせて頂こうと、という願いが形の上にも心の上にも、現わされていかなければいけない。只今御祈念終わりました後に、皆さんに聞いて頂きましたように、三代金光様は事にあたって必ず、ごいこくがございます。
その鯉こくの後には必ず皆様どうぞよろしゅうお願い致します、というお言葉を使いなっておられた。何のために一教の教主ともあるお方がです、しかも金光教のあり方で言うならばです。先生が頼んだりして出来ると言う様な事ではない。例えば大祭でも他所から来る大祭のご案内を見ますと一番分かりますね。何時何時は大祭ですからお知らせしますと言うだけなんです。どうぞお参りして下さいと言う言葉は使いません。
ところが合楽だけは違うんですよね。これは教会を第一に、総代信徒会長初め総代一同が、出しますから案内と言う事になっております。他所では案内じゃなくて、通知であります。と言うのは私はこれはね、私はその色々感じる所がありましてね。これは矢張り私は、合楽でやってる案内の方が本当じゃないかと。どうぞお誘い合わせてお参り下さいと、何時何時は大祭ですからと案内を受けるような事であってはならん。
自分が率先して、お参りして来るのだ。だから通知だという、まぁ色々などちらが良い悪いは別と致しましてです。そういう生き方を、金光教のあり方だと、私共は思うております。けれども、三代金光様はそうではない。最後に皆様どうぞよろしゅうお願いしますと、いわば、手をつかんばかりに願うておられます。私は今日は私も、大体その手を付いて頼むような生きかたじゃないのですけれども。
これは私ではない神様がね、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと、手を付かんばかりに言うておられると言う所から見ますともです。これは取次者の立場としてもです皆さんどうぞ、大坪総一郎のためにお願いしますではなくて、神様の為にみなさんどうぞ、よろしゅうお願いしますと。いわゆるそれはとりもなおさず、まぁ皆さんがおかげを受けなければならん為でもあると言う事からね
。今日はどうぞよろしゅうお願いしますと。けれどももうそれ前に、神様がよろしゅうお願いしますと。よろしゅうお願いしますの言い合い、言わば願い合い頼み合いという事がです、そこから生まれて来るように、今の頼まれたけんしようなかと言う生き方と。頼み頼まれてからの、あり方というものをですここに現していく。所謂顕現して行くという事が御道の信心の、まぁ頂きかた御道の信心を頂いて行く者の、所謂根本姿勢という物があり、そこにそうあらなければなかんないと言う事になります。
どうぞ神様は神の用を足しゃ、氏子の用は神が足してやる。それはどういう事かというとです。私はそのままが私共の力になる事だと思います。例えば先ほどからも申しますように、おかげを受けなければならないから、その本人は意識するしないは別として、御用に使われておる。それは例えば造園をするのに、自分は気付かんままに石の灯篭に使われておるというような生き方、それはおかげを頂かなければならないから、お役に立っている訳。向こうが使うてくださってあるわけ。
そこの所をです私共がいうなら只今申します様に、頼み頼まれての事。そして私のような者でも御用にお使い下さるならば、どうぞという姿勢を持って、御用のお使い回しを頂いて。所謂神の用を足しゃ、氏子の用を足してやると仰せられる、その神の用に向ってです、所謂合楽願をそのまま私は神の願い、そして氏子の大願。私は今朝から何かしきりに、それを繰り返し頂くんです。
いままでは神の大願、神の悲願と言った様なふうに表現してましたけれどね。もうこれはただ神の願いである。だから私どもがね、悲願を立てなければいけん。私どもが大願を持たなければいかないその悲願こそがです、どうでも例えて最近私が言っておる事がです、私共の信心が、そのまま社会のお役に立たせて頂く、世界の言わば隅々にまでこの信心を広めずには止まんという悲願を持たなければならない。
所謂大願なんです。私共が大きな願いに立たなければならない、と言う事になります。皆さんどうでしょうか。どうでも一つ私はねそういう合楽願と。先日桜井先生が頂かれたという。氏子のいや合楽の願いがそのまま神の願いとお知らせを頂かれる。私の意を愈々強うする所であります。だから皆さんもほんなら、私の願いに沿うて下さる事がそのまま神の願いであり、私どもはそこの所の大願を立てなければならない。
その大願の言わば第一歩が、言わば一月後に仕えられる大祭の事でもありましょう。または一年後に仕えられる五年の記念祭。それに特別な事業などが思い立たれる。その事がです一駒一駒がです、世界に向けての祈りの第一歩であるとしての願い。合楽の為のそれではない。神の願いが成就していく事のための、それであるという頂き方の中からです、その願いは大きな願いに飛躍した事になるのじゃないでしょうか。
教祖様が自分の家の門口を、一つ掃わかせて頂くでも、自分の前を綺麗にするという思い方から、もう既に世界に壺が極まっておるんだという気持ちでとおっしゃっておられます。その思いがねちょっと変えられるか、変えられないかで、祈りの内容が大変な違いになって来るのですから。ただ合楽の今度ご造営があるからとか、御本部のご造営があるからとかと、例えばねそういう事だけではない。
記念祭があるからその記念祭に打ち込む、その記念祭に打ち込むその事がです。世界が愈々清まって行く所の大きな運動とでもいうかね、私はそれが一つのまぁ運動とまでもなっていかなければ駄目だと思う。そういう働きの中に私共があるんだという自覚を、新たにしての信心を頂かせて頂く。そこからね私共が願い願われての動きと言う事になって参ります時にです、私共の生き方が生き生きとして来るのではないかと。
その目的が立派であればあるほど、大きければ大きいほどそれは立派に、そして生き生きとしたものになっていかなければならんのであります。今朝からの御理解の中に私は何時も皆さんに聞いて頂く、また私が借金払いに行く時に、途中で聞かせて頂いた、相撲取さんのお話を聞いて私が発奮した。そらもう末は大関か横綱かという神の願いがあればこそいや幾年かの後には、幾十年かの後には、もう日本中でお前がおらなければ、大坪総一郎がおらなければ立ち行かん事があるんだぞと。
さぁ今の内にしっかり力を付けてくれよと言うておられる願いがあるからこそ、あのようにして鍛えられたんだと思うたら、心からいや何処から湧いて来るか分からんファイトが湧いてきて。それこそもう重い足が軽い足取りになって、借金の断りに行かせて頂いた。その日がもう借金を断りに行かんでも済む様になったと言う程しの、おかげになったという話を何時も致しますね。
それを今日私はねそういう、今日分らせて頂いたんですね。和賀心からも練りだせという御理解を頂いて。話を聞くばかりが能ではない、和賀心からも練りだせと。話を聞いてうんそうだなぁと考えこんで、分かるのではないです。本当に自分の都合だけ、自分の手前の所だけで信心を決めてしまう。この方の行は家業の行ち言わっしゃるけん、もう家業の行に打ち込んでりゃもう行が出来とると言った様なです。
甘っちょろい考え方をしてそして、愈々の時には、慌てふためきせんならんような信心しか出来ていない様な事じゃつまらんでしょう。そげな風で力が出来る筈がない。ですから、話を聞いて行じて行く一生懸命修行させて頂く。そこからね分からせて、今まで分からなかった事が分かって来る。しかも分からない事すらが分からないという今日の話。行の上に現していかんとです、分からん所すらが分からんのです。
私は今日それを皆さんに聞いてもらいながら思わせて頂いた。いわゆるそん二十何年前のその借金を断りに行くその事がです。ははぁそれ前にほんなら、とにかくもう十回も十五回もやらせて頂いておった事であろうがです。その時にはどうしてこげな難儀な思い、神様におうかがいおすりゃぁ実意を持って、やはり断りにいかにゃいかん。断りにいきゃ向こうはもうとにかくもうあちらにね、今でも忘れません。
床の間にねそのバナナの置物があったんですよ。こちらには丸い、まん丸い花瓶があったんです。そしてそこに、電気スタンドの机の上にこうやって置いてあった。そしたら上さんがね私が行ってからもう、こうやって頭を下げると、頭の上からガンガン喧しゅう言うとですよ。もうあんたは、見損のうたと言う訳なんですね。それが大体同じ嘘になるもんですから、言われるのが当り前なんだ。そこに行きますとね、そのこうぶうと膨れたごたる花瓶を一番に頂くです。
また今日も膨れちゃるなぁと思うんですよ。こっちはそれこそバナナの皮を剥くごとして行きよる。もう行くたんべんには洋服を持っていったり、着物を持っていったりしてね。もうその言い訳のしようがないから、そうなっとんせにゃいかんと。そんなもんが何になるのち言うちから、跳ねのかされた、持って行ったっちゃ。それこそ布皮剥いで持って断りに行きよるんだけれども向うへ。
そすと奥さんがあんまり言うもんじゃけん、気の毒そうに裏から出てきてからですね、あんたごと言いなさったっちゃち言うて、まぁ主人を言う様なそれで電気スタンドをこう点けなさる。その場を明るくして下さると言った様な働きの中にです。もう本当に私は、そこん断りにやらせて頂く時、もうまた行かんならん、またあのぶっちょう面を見らんならんと思うただけで、足が竦んでしまいよったですよ本当
。だからいくらそりゃ実意をしておるからと言うてですね、足が竦むようなそういう弱々しい心では、おかげにならない事を、今日私は分かったです。だから皆さんでも、様々な難儀をです。難儀を持っておられる、その難儀はです。はぁ何時までこういう難儀をせんならんじゃろうか、ほんに神様にお縋りばっかりしてと。そう言う様な言わば悲しい考え方やら思いやらではね、神様に生き生きとして通わないのです。
そこで何とか信心の工夫をしにやらせて頂いて、一修行をさせて貰うて。その事が同じ事柄なんですけれども、さぁその話を聞かせて頂いた途端にです、神様に私の願いが、大きな願いがかけられておるんだと確信させて頂いたら、もうどこから湧いてくるか分からない確信が、いやそのなんて言うんでしょうかね。もう意気揚々と確かなもの。もう弱って借金断りにいくち言うごたる心持ちが生まれてきとる。
もうその時を最後です、もう大坪さん来んでよかばのち言わっしゃった。本当です。そして十年ほどほうからかしておって、福岡の教会の大祭の時に、春吉の教会の先生に、私が春吉の教会にお導きしてましたから、その方に言うたら。大坪さんなえらいこの頃、あちらで発酵しござるげなが、という話を聞いたから、とにかく払い行きなさらにゃいかんですよち聞いたから、もうすぐ秋永先生のの単車でしたかねあん時は。
単車か自転車かに乗せて貰うてから、すぐ行きました。あの平和台の前にその当時はもう、移って来ておられましたから。行きましたらもう向こうも、それこそなんて言うですかね、待ちに待った人と言うか、昔のなつかしい人と言うか、会うた様に喜ばれましてね。もう話は聞いておるち、よっぽどあの人達は都合が良うありなさるそうだなと、言うて喜んで下さった。
実はこげな風で今日は、春吉の先生と会うてね、それから秋永先生がそんなら私が、そこに2、3件集金を回って来てから、お金を作って持って行って行きましょうて言うてくれますから。ほんなら今日支払いに行こうと言うて、やらして頂きましたらもうそげな段じゃじゃありませんでした。もう私はそれを聞かせて貰うて喜びよるて、本当大坪さんが、金光様、金光様ち言うばってん、あの時分なあんたごたる奴が金光様の信心したっちゃ、何がおかげ頂くのち言よった私がね。
やっぱりあれだけ熱心な信心しござったけん、おかげ頂かっしゃったと言うて、夫婦で喜びよりますと言うて、もう何の貰いまっしょうかいち、どうしても取ってくれませんでした。それですぐ高橋さんが、まぁだご信心の初め頃でしたでしょう。私はまぁそれに匹敵するとまでいかんでも、沢山なお下がりを持ってですね、あの高橋さんに行って頂きました。そんな事でございましたがね、今日私はその事を改めて思わせて頂いて、成る程おかげ、信心それに取り組むと言うことはですね。
あぁあ本当にどうして私はこげん難儀せなんじゃろうか、苦労せんならんじゃろうか、それで参っただけではね、そりゃいかにも実意を尽しよるごたるけれども、内容がその神様から離れておると言うこと。どういう中にあっても、生き生きとした喜びを言うか、生き生きとした元気な心と言うものが、湧いて来る程しのね、内容を何とかして頂かなきゃいけない。そこにある物はです、矢張り一心発起一つ修行させて頂いて。
まぁ言うならば、がむしゃらなまでの信心修行の中からしかです、そういう生き生きとしたものは生まれて来ないと思うんです。私はその事に今日初めて気が付いたんです。ただ実意に、断りに行くというだけじゃいかんです。足が重いごたる修行じゃいかんです。もう足軽々とした、教会に向こうてくるでも、おかげ貰いげ行くじゃなくて、信心を分らせて頂くという事の楽しみが、教会通いになってくると言う様なね。
おかげになりませんと、おかげになってこない。そういう意味でです、私どもが生き生きとして、折角させて頂く御用ならばですたい。これが内容が喜びいっぱいで一心の真を尽しての、お役に立たせて貰う御用に立たせて頂く所の御用にならせて頂く事の工夫が必要じゃなかろうかと。一年も前からいうなら大祭で言うならば、一月前から所謂総会の時にその事を、一月後には大祭だぞという事をです。
大祭前に生き生きとしたそういう心を作らせて頂く、一修行させて頂くと言う事が、この総会の大体願いであると私は思うのですよ。そういう意味においてです、どうぞ折角お役に立たせて頂くなら、御用に使うて頂くなら、無意識の中に使われておると言う様なものではなくて、意識して、しかも一心の真を捧げてのお役に立たせて頂きたいもんだと、まぁ願わせて頂くのでございます。
どうぞ、よろしくお願い致します。